インターナショナル・フォスターケア・アライアンス

レジリエンス壁画プロジェクト

 この『レジリエンス壁画プロジェクト』は、社会的養護の当事者の書いた自身のストーリーを大きな絵にする、というIFCAと鷲尾さんのコラボレーションとして、2023年に開始しました。

 アーティストの鷲尾友公さんは名古屋市内のご自分のアトリエで2025年3月8日のサミットに合わせて壁画第2弾を完成させました。

 その年の夏、渡米したIFCAの日本ユース4名のレジリエンスのストーリーを土台にして、鷲尾さんが2週間余をシアトルでついやして縦2メートル、横5メートルの壁画をデザイン・制作しました。この壁画は現在、ワシントン大学ソーシャルワーク学科ビルの学生ホールに恒久展示されています。

https://www.instagram.com/p/CvrEIcduX9b/?img_index=1

For reading this article in English, please go to theis website page ⇩ https://ifcajapan.org/news/all/1928/


IFCAレジリエンス壁画プロジェクト

◎ アーティストの鷲尾友公さんは名古屋市内のご自分のアトリエで2025年3月8日のサミットに合わせて壁画第2弾を完成させました。

 この『レジリエンス壁画プロジェクト』は、社会的養護の当事者の書いた自身のストーリーを大きな絵にする、というIFCAと鷲尾さんのコラボレーションとして、2023年に開始しました。
 その年の夏、渡米したIFCAの日本ユース4名のレジリエンスのストーリーを土台にして、鷲尾さんが2週間余をシアトルでついやして縦2メートル、横5メートルの壁画をデザイン・制作しました。この壁画は現在、ワシントン大学ソーシャルワーク学科ビルの学生ホールに恒久展示されています。

https://www.instagram.com/p/CvrEIcduX9b/?img_index=1

この壁画第1弾の土台になった4つのレジリエンスのストーリーは、このページの一番下に掲載されています。


 壁画第2弾は、2025年3月のユースサミットに合わせて来日したベロニカさんとレイダさんの書いた「困難を乗り越えたレジリエンスのストーリー」をもとに、鷲尾さんが壁画を創る試みでした。


鷲尾友公(わしおともゆき)略歴 


愛知県生まれ。同地在住。 独学で絵画を学び、人物や事象など享受した事柄と関わり合いながら、イラストやデザイン、映像など多岐に渡る制作活動を展開し、人間の自由な行為として表現する。美術館や海外でも発表されたオリジナルモチーフの手君は運気アップのアイテムの一つ。主な展覧会に「鷲尾友公のWILD THINGS 」(アートラボあいち長者町,2016年)、『粟津潔、マクリヒロゲル 1「美術が野を走る:粟津潔とパフォーマンス」』(金沢21世紀美術館,2014年)「あいちトリエンナーレ2019情の時代」などがある。


ここにまず、ベロニカさんとレイダさんのストーリーの日本語訳を掲載します。


ベロニカ・クラプニックのストーリー


児童福祉の分野で講演活動やアドボケイト(権利擁護)をしている私は、「レジリエンス(回復力)を高めるために最も影響を与えたものは何ですか」という質問を受けることが、よくあります。この質問には、「私のレジリエンスは、状況や環境、夢や願望によって変化してきました」という回答をします。

最近、私は自分の人生で最も勇敢なひとつの決断をしました。アリゾナ州のホピ族居留地(私は先住民であり、米国の部族国家の一員です)に帰るということです。自分の過去への扉を開き、自分のルーツである家族、生まれ故郷、そして太古の昔から私の民族が知っている土地に戻ることができるほど、私はついに強い気持ちになりました。心はずっと知っていたけれど、心が追いついていなかった家族に再び自分を紹介するという、非現実的な経験でした。

この瞬間を夢見たこともあったし、この瞬間が来ることを恐れていたこともありました。社会的養護の経験には非常に複雑なものがありますが、その中でも最も中心的なものは、否定的であれ肯定的であれ、愛についてのメッセージです。私にとって、愛との関係は傷ついていましたが、まだ癒しの余地はありました。

代々受け継がれてきた家族の家に入ると、温かさ、悲しみ、幸せ、喪失感、喜び、そして痛みの波が押し寄せてきました。私は家族の腕の中で愛情をこめて抱かれ、幼いころの思い出の中で繰り返し再生されたキャラクターを思い出し、涙を流し、ただ解放されました。25年近い別離の間、私は悲しみと解放を同時に味わっていました。生みの親はもはや過去の他人ではなく、私の現在と未来の活動的な一部となったのです。

私は実家で6日間を過ごし、家族の物語や歴史に耳を傾け、自分自身と自分がどこから来たのかについて学びました。私に返ってきたと感じた自分自身の最も大きな一部は、それぞれの家族の中で長女、長孫娘、そして同世代の長女としての役割でした。私が今日あるのは、この地球上に私が生まれるずっと前から始まっていた物語のおかげなのだと学びました。私のレジリエンス(回復力)は決して偶然ではなく、先祖が込めた祈りの意思によるものだったのです。私は今、自分がいるべき場所にいます。そして、私の物語のすべての部分が、この帰郷へと導いてくれたのです。





野蛮な解放

レイダ・M・ガルシア=グリーンウォルト著


私は母の野蛮な娘だ、
裸足で鋭利な石を罵りながら走る。
私は母の野蛮な娘だ、
私は髪を切らず、声を低くしない。[1]

物心ついたときから、母は私たちに自分の教育への思い入れを押し付けていた。他の子どもたちがキャンプやスポーツで夏を過ごす中、私たちは夏のほとんどを図書館で過ごした。小学生が学校の休みにいちばんしたくないことは、母親が教師になる夢を描き、子どもが『学校ごっこ』をして遊ぶことだろう。しかし、悪いことばかりではなかった。ある夏、『八十日間世界一周』を課題にしたときのことを鮮明に覚えている。姉と私は交代でいろいろな国を選んで学んだ。最大10冊の本を借りて帰り、様々な文化に浸った。フードスタンプ(低所得者のための食費支給制度)が許せば、プロジェクトを実現させるために、いくつかの文化レシピを試したりもした。
ティーンエイジャーの母親から生まれたからには、それなりのライフスタイルがある。固定観念を乗り越える方法をすぐに学び、母親が自分の努力をサポートしてくれたのと同じように、自分の努力も同じようにサポートする。5人の子どもを産み育てて11年かかったが、母は経営学の学士号を取得した。15歳でプエルトリコからシカゴに移り住み、10代で英語を学ばなければならなかった移民一世の学生として、これは並大抵のことではなかった。

しかし、私は高校時代、高等教育に進むかどうか迷っていた。この時点で、私は中学3年生まで12校の学校に通い、中学1年生からは里親の世話になっていた。里親のもとで育つと、18歳の誕生日をじっと待つことになる。ケースワーカーたちの関心が少し薄れ、 司法制度の中の要保護児童として国との「関係」を解消できる日だ。18歳になるまでに多くの時間を費やし、その後に多くの人生があることを忘れてしまう。

私はやり遂げた。国内トップクラスの高校を卒業する数ヶ月後に、私は18歳の誕生日を迎えた。私は18歳で、妊娠していなかった。児童養護施設を出た少女の10人中7人が、21歳までに妊娠している。[2]さらに、社会的養護の下で育った10代の母親は、他の10代の母親に比べ、生後1週間で赤ちゃんの親権を失う可能性が11倍も高い。[3]確かに、18歳の私はよく知らなかったが、それは私のことではないと思っていた。

多くのティーンエイジャーがそうであるように、私も大学生活を楽しみにしていた。家から離れ、新しい友人と出会い、新たな独立心を試すことを楽しみにしていた。しかし、多くのティーンエイジャーとは異なり、私は大学入学前に普通とは違う経験をした。実際のところ、私は普通のティーンエイジャーとは違っていた。私は18歳で、まだ里親家庭に生活していた。イリノイ州は、若者が21歳まで保護されることを認めている州のひとつである。あらゆることを考慮しても、私には他の人たちよりも優れた支援ネットワークがあった。実の家族である母、5人の弟妹、そしてかれらの父親とは素晴らしい関係にあった。みんな仲が良く、私が里親とも素晴らしい関係を築いていることを喜んでくれていた。

イリノイ大学の寮に入る数週間前、母が入院しているという連絡を受けた。母が精神的な不安や基礎疾患を抱えていることは知っていたので、入院していることなど何とも思っていなかった。しかし、今回のことはかなり違っていた。母が心停止を起こし、集中治療室で母に必要な手続き書類にサインをしてほしいと言われたのだ。私は急いで家に帰り、ケースワーカー(当時は月に3回の面会を行っていた)に会ったことを覚えている。私はそのことを何も告げず、里親と一緒に病院へ急いだ。母の最年長で未成年でない子どもである私は、母の医療委任状として書類に署名し、人生を左右する決断を下す役目を負った。母は3時間以内に5回の心停止を起こし、生命維持装置につながれた。今思えば、すべてがあっという間の出来事のように思えたが、実の家族、里親、恩師、友人たちに囲まれ、母が医学的に誘発された昏睡状態から目覚めるのを待つ数週間を病院で毎日過ごしたことを覚えている。

『グレイズ・アナトミー』や『シカゴ・メッド』(病院が舞台となっているテレビ番組)が教えてくれないのは、生命維持装置につながれていていいのは10日までで、それ以上になると臓器が劣化し始める。看護師たちは、このことを私に伝えるのを6日目まで待った。私は8日目に生命維持装置を抜く決断をした。郊外にいる家族(テキサス州とインディアナ州にいる母の姉妹、ネバダ州にいる祖母)に連絡した後だ。母が望んだように、母の臓器提供を許可する書類にサインし、最後の別れを告げた。驚いたことに、母はその晩逝去しなかったばかりか、ほぼ1週間後に目を覚ましたのだ。私は生命維持装置につながれている無保険の母のためにメディケイドの書類を書いたり、葬儀の準備をしたり、リハビリ施設を探したりした。医師や看護師たちは、母はもう話すことも歩くこともできないだろうと確信していた。母が目を覚まし、スペイン語しか話さなくなったとき、私はこれが私たちの新しい日常なのだと確信した。スペイン語を話す家庭で暮らすのは何年ぶりかで、私自身もなかなか流暢なスペイン語が出てこなかった。一日後、彼女は再び英語で話し始め、その数日後には自分で座って歩くようになった。誰も信じられなかった。

母が退院してリハビリ施設に入所する2日前に、私はキャンパスに移ってきた。退院書類や入所書類を印刷し、署名し、スキャンして送り返すために、図書館を何度も往復したことを覚えている。勤労感謝の日までに、母は 、自分で固形物を食べるようになり、家に帰る準備ができた。それでも母は脳に大きなダメージを負っていた。母は1日に12回も電話をかけてきた...私が授業中に。教授たちは理解を示してくれたが、私は「伝統的な」大学生活を失うことを嘆いた。他の学生とは違い、私は毎週末、キャンパスから自宅まで3時間かけて母を訪ね、母が快適に過ごせるように世話をした。私はすぐに社会保障制度の申請方法を学び、母の給付金の指定受取人になった。私が里親に預けられるまでの12年間、母が私を世話したように、私も母の世話をする方法を学んだ。

その後、平常心を取り戻し、典型的な大学生活を送ったと言えたらよかったのだが。残念なことに、母の命はそれが限界だったのだろう。大学入学23週間後に、母は37歳で他界した。間違いなく、誰もが恐れる電話だった。それが朝の4時で、家から何時間も離れていればなおさらだ。私は、自宅のように感じられる唯一の場所・・・大きな大学の中の小さな校舎にあった。そこに私は日々通い、すべての授業を受け、最初の友人を作り、ITアシスタントとして働いた。私は実際に、この校舎の中に住んでいるような生活を送った。私は何人かの教授に歓迎され、受け入れられた。かれらは私に母との思い出を語るように勧め、自分自身の話をし、私がしっかり食事をとっていることを確認した。

しかし、すべての教授が親切だったわけではない。大学では、「親、後見人、配偶者/パートナー、子ども、きょうだい、祖父母を含む肉親が死亡した場合、最大5日間の忌引休暇」を認めている[4]。喪に服し、葬儀の計画を立て、家族を集め、そして何事もなかったかのように学業に戻るために、たったの5日間?当時、私は『リーダーシップ学』を副専攻していた。すべての教授にそうしていたように、私は教授に連絡を取り、不運な状況を説明した。火曜日の朝だった。私は、 その日の朝に授業で小テストがあったことを認め、帰ってから埋め合わせができるかどうか尋ねた。教授は、埋め合わせはできるが、木曜日の授業の前に答えを確認する必要があると説明した。私はもう一度事情を詳しく説明し、母をきちんと送り出すのは私の役目だと説明した。教授はそれでも、クラスの方針を述べ続けた。今思えば、その時私に必要だったのは、第二専攻の学科のディレクターである女性が、家族のことは後回しにしてテストを受けるように、という配慮のない一言だったのかもしれない。私はその後、副専攻を放棄してクラスを去り、その後、振り返ることはなかった。

それ以外は、心の癒しと学業に必要なサポートがあった。困難な状況にユーモアを見出す私は、少なくとも母に対するケアは、最初に彼女が生き延びることはないと覚悟した時からすべて済んでいた、と冗談を言った。私は母との余分な1年を与えられた。そのことに私はいつも感謝している。

私が児童福祉制度に出会った一番古い記憶は、5歳くらいの時だ。私の家族は、薬物使用の疑い、精神衛生上の懸念、ネグレクト、貧困、その他いくつかの社会悪など、無数の理由で10年以上にわたってソーシャルワーカーを出入りさせていた。私が12歳の時、5人のきょうだいと私は引き離され、別々の里親家庭に委託された。イリノイ州の里親制度での約8年間、私は里親の家、シェルター、病院を転々とした。このような経験から、私はソーシャルワーカー、法執行機関、弁護士、裁判官を毛嫌いするようになった。しかし、人生にはユーモアのセンスがあるのもで、こうして私はここにいる--ソーシャルワーカーから弁護士に転身したのだ。

ソーシャルワーカーとはどうあるべきか、どんな資質があれば効果的なのかがわかったのは、高校に入ってからだった。高校時代、ソーシャルワーカーにこの分野を考えるように言われたのだ。彼は私に、良いソーシャルワーカーになるためのあらゆる資質を持っていると言った。私が日々「児童養護施設にいるティーンエイジャーの問題」を相談したのと同じように、彼は成人した娘との関係を維持する方法について私の助言を求めてきた。高校時代のカウンセラーと出会い、共に働いた2年後、私はソーシャルワーク学部への入学を許可された。私は、適切な資源と手段があれば、どんな境遇の子どもでも成長できることを証明する見本のような存在なのかもしれない。全国的に見ると、社会的養護経験者の約50%が高校を卒業しているが、4年制の学位を取得するのは5%未満である。[5]私は統計に次ぐ統計を打ち破り、チャンスがあれば、他の人たちが自分と同じように目的達成をする手助けをした。

学部生だった私は、Foster Care Alumni of America - Illinois Chapter(以下FCAA-IL)の政策委員長として関わるようになった。 その数週間前に実母が他界したため、当初は参加するのをためらっていた。 また、州レベルの立法に携わった経験もなかったため、参加には消極的だった。 私はしかし「レジリエンス」の意味を理解しており、勉強を続け、母が残してくれた遺産を継承していく以外に選択肢はないとわかっていた。FCAA-ILでの経験を通して、私は立法と政策が大好きになった。連邦レベルでは「家族第一法」(子どもを親のもとから引き離す前に、家族への支援サービスを優先する)、州レベルでは「社会的養護経験者の授業料免除」(州内の公立教育機関に通う場合、授業料と関連費用を免除する)など、連邦・州レベルでいくつかの法案の成立に貢献してきた。これらの功績のひとつひとつを思うたびに、私に闘うための何かを与えてくれた母に感謝する。

これまでの人生経験から、私は児童福祉法を専攻して法律の学位を取得することにした。ロヨラ大学シカゴ校で過ごした時間は、現在および過去に保護下にあった若者をよりよく擁護する方法を教えてくれたし、社会から疎外されたコミュニティに広く恩返しをすることができるようになった。ロー・スクール在学中も立法擁護活動を続け、イリノイ州全域の若者に対する少年法制度における罰金と手数料を撤廃するための法案を起草し、可決した(上院法案 1463条)。さらに、イリノイ州の養護施設にいるすべての若者に弁護人の権利を成文化する法案(上院法案 1478条)の起草にも協力した。この法案は立法闘争が続いているが、私は必ずやり遂げる決意である。

その約束どおり、私はシャンペーン郡でCourt Appointed Special Advocates(特別弁護人)に携わるようになった。法律の勉強のためにシカゴに戻ったが、私は保護下にある若者のための保護者代理人としての仕事を続けている。さらに信じられないことに、私はシビタス・チャイルドロー・クリニックを通じて、自分の案件を任されている。私はクック郡の児童養護施設にいる若者の代理人として、記録に残る弁護人を務め、法廷ではかれらの代理人として主張する。

社会的養護での経験は、制度の欠点や改善策を見出すのに役立った。私はこの経験が自分のキャリアと情熱を引き出してくれたことに感謝している。実体験を持つ人間は、若者のために擁護し、実践を提案し、代表の基準を設定するという、この仕事の最前線にいなければならない。そのために、私は法科大学院在学中に、社会的養護の経験を持つ若者が直面するユニークな課題に焦点を当てた論文をいくつか発表した。[6]私の目標は、 同じような背景を持つ若者にサービスを提供するだけでなく、私が当時そうであったように、かれらが自らのキャリアを探求する力を与えることである。今の自分があるのは、先達のおかげであることは忘れていない。

私はいつも母をヒーローのように見ていた。彼女は子どもたちをサポートするために必要なことをし、なおかつ自分自身の教育も成し遂げた。母にとって学校は常に最重要事項であり、その価値観は私にも確実に受け継がれている。私は学び成長し続ける中で、児童福祉制度を非常に軽蔑するようになった。母の娘であり、真の地獄の亡者である私は、廃止論者の価値観に賛同している。しかし、どうしてそうなるのだろう?私は児童養護施設での生活に感謝すると同時に、この制度がもたらす害を認めることができる。私はスペイン語のスキル、家族のレシピ、そして何よりもきょうだいとのつながりを失った。しかしワンダの流儀では、私の仕事は始まったばかりだ。We are our mother's savage

daughters, We won't cut our hair, We won't lower our voice. 私たちは母親譲りの野蛮な娘たちだ。髪を切ったりしないし、声を低くしたりもしない。[7]


[1]My Mother's Savage Daughter by k. l. kahan as Wyndreth(2017年)。
[2]https://nfyi.org/51-useful-aging-out-of-foster-care-statistics-social-race-media/
[3]https://www.yahoo.com/news/teen-mothers-foster-care-high-risk-losing-custody-041021245.html
[4]https://odos.illinois.edu/resources/students/bereavement
[5]https://nfyi.org/issues/higher-education/
[6]私たちにはあなたの声が聞こえない:養護下にある若者に対する弁護人の権利の要請」『子どものリーガル・ライツ・ジャーナル』2023年5月号、「道徳的傷害」『:家族警察システムに蔓延する未診断の伝染病と廃止の呼びかけ子どものリーガル・ライツ・ジャーナル』2023年5月号参照:道徳的傷害」『子どものリーガル・ライツ・ジャーナル』2023年5月号。
[7]My Mother's Savage Daughter by k. l. kahan as Wyndreth(2017年)。




壁画第1弾は、「困難を乗り越えた、日本のユースたちの4つのレジリエンスのストーリー」をもとに、鷲尾さんが壁画を創る試みでした。



アーティスト 鷲尾友公  この作品の成り立ち

6月中旬、ユースの皆さんのお話を聞きました。
どんな幼少期だったか、どんな気持ちでいたか、何を感じていたか。
いくつかの話の中から共通する事柄(キーワード)が浮かんできました。

森の中を彷徨っているようだった。
雨が降っていた。植物が発芽したような。
夜が明けた。モノクロからカラフルに。
過去を受け入れる。 友達とは何か。
記憶を辿る。

そして彼女たちから感じたのは強さでした。

森の中に降る雨、散らばった月の欠片(記憶)。彼女たちがその欠片を集め光に照らされた時、
彼女たちはその光の中で踊るようにどんな人生を歩んでいくのか。
という未来に向かう姿を想像して描きました




かほ

お金があれば受けなかったであろう暴力も避けられたであろう災難も感じなくてよかったであろう絶望も人生を埋め尽くすほどにあった。))
圧倒的な構造の暴力に負けるのと事実だけど、その構造は主体性によって少しずつ変化を起こせるものだと信じることが私のレジリエンスである。

自分のやりたいことをノートに書いて忘れないようにしたり、なんの制約もないなら何がしたいかを考えてそれに近づくような選択を取り続けていた。

選択肢が少ない中で常に最善の選択を取って生きていた。また、自分の主体性で変化させることが出来ない構造を受け入れてそれも含めて生きていくことも私のレジリエンスである。
自分ではどうしようもないことを人に助けを求めることで解決したり、別の方法を模索したりしていた。どうしようないことは諦めて気分転換に本を読んだり音楽を聞いたり映画を見たりと美しいものに触れて癒されていた。またその世界に浸ることで現実を忘れていたように思う。


宮崎菜々

私が社会的養護の中にいるときに困難だと感じたことは、将来のことを考えることでした。
それはまるで大雨が降る夜の森にいるような感覚で、月あかりも星のあかりもない中、全身ずぶ濡れになりながら、ただひたすらに彷徨っているようなものでした。自分の将来なんてろくなものでもないと思っていました。将来なりたいものもなかったですし、進学なんていうことは考えてすらいませんでした。将来私はどうやってお金を稼いでいこうかと悩みながら、目の前のことをひとつひとつこなしていくのでいっぱいいっぱいでした。

そんな中、私を導いてくれるものがありました。高校の先生の存在です。それはまるで木霊(こだま)のように輝き、私に道を教えてくださいました。

先生は私に進学という道を提案してくださいました。「あなたは進学するべき人だ」そう、強く言ってくださいました。
何も持っていなかったように見えた私から、勉強というリソースを見つけ出してくださいました。
そして、大学進学という目標を与えてくださいました。

気づけば雨が止み、だんだんと夜が明けてきて、徐々に周りが少しだけ明るくなっていくような感覚でした。
しかし、その後も進学に対して施設の職員の方の反対があったり、大人対大人の意見の違いに巻き込まれ、迷いそうになることは何度もありました。それでも私は最初に導いて下さった先生を信じて、大学進学を目指しました。

合格発表の日、森には朝日がさしていました。
現在私は、防衛医科大学校で、将来医師となるための勉強をしています。暗い森を彷徨っていた私には想像できなかったような未来です。
私は将来の生き方の選択、そして、自立という大きな壁を乗り越えることができたと感じています。

そんな私が考えるレジリエンスのイメージは雨上がりの朝の森のイメージです。
倒木もあったり、まだ葉っぱが濡れていたりします。でも、さっきまで降っていた雨は確実に土壌を作っていて、植物に元気を与えています。雨を力にして、倒れた木を栄養にして、草木が育ちます。雨で地面に落とされた種子は発芽します。そして次の困難に備えて、強い森を作っていくのです。
そうやって森が育っていく、そのすべての始まりのようなイメージです。




田邉紀華


あなたの社会的養護の経験の中で、困難だったこと、問題だと感じたことをひとつ取り上げてください。「自分のルーツがわからず不安を感じたこと」

私は9歳から、いわゆる「ふつう」の家庭から一変し、児童養護施設で生活をすることになりました。当時施設にいる頃は、「自分の過去なんて知らなくていい、今が楽しければいい」と感じていました。
しかし、ふと施設を退所し、一人暮らしを始め、孤独を感じた時に思いました

「ほんとうにこのままでいいのだろうか」
自分の事を好きになりたいけど、9歳以降からの自分からしか好きになれない…

母の喪失、それに伴う家族のこと、自分のことが何もわからない・・・
そこで私は自分自身の事を取り戻す事を決意しました。まずは、自分の生まれ育った場所に自分の力で向かい、母の墓を見ました。
そのあとは、児童記録を確認して母の死因やなぜ施設に行くことになったのかを聞きました。

そして父親のいる家をたどったり、わずかな手がかりから遠い親戚へ手紙を出し、文通をしたりしました。やりとりをしていた親戚はつい最近再開し、話をすることができました。
関係が悪化していた叔父とは交渉をして、母の位牌を返してもらうこともできました。
その時に写真も手に入れて、初めて父の顔を見たりなどもありました。

大きく困難を乗り越えたと感じた時は母の死因を聞いたときです。
ずっと私は母が死んだのは「私のせい」だと思っていました。しかし、その時の背景や母の状況も併せて知ることができたおかげで「私のせいではない」と感じることができたのです。それから気持ちが大きく不安定になることが減っていきました。

私にとってのレジリエンスのイメージは、ジグソーパズルのピースを集めるような感覚です。ピースの一つ一つはで明るく、きれいな色もあればよどんだ暗い色もあります。
不安定な頃はそれがばらばらで、私にとって見えやすいきれいな色のピースしか集められませんでした。
しかし、どのピースも「わたし」というものの一部だったのです。いい事も悪い事も含めて私の一部でした。統合されて初めて蔑ろにしていた「わたし」を認識することができた感覚があります。
まだ、ピースはすべて集まってはいません。これからも「わたし」という名前のピースを探していこうと思っています。




山本愛夢

私のレジリエンスは人と繋がる力です。
私はひとりっ子です。私の両親は私が1歳の時に離婚しました。母に引き取られ母1人、子1人で生活していました。
母は躾を頑張り、暴言暴力までを使っていました。
高校生のときに母が難聴になりました。病院でストレスが原因と言われ母は私にストレスはあんただと言いました。それを聞いて私は死ぬことを決意し、学校の先生に伝えました。

そして、虐待として児童相談所に保護されました。
保護されてから一時保護所で過ごし、里親家庭に引き取られました。
里親家庭では自分の意見を初めて大人に伝えることが出来ました。
精神的に未熟だった私は社会に反発し大人に反発し里親とも対立しました。人を信用することは怖くて怖くてたまりません。
ずっと孤独でひとりぼっちで生きていくと思っていました。

里親の家を出てから社会的養護出身者が集まっている世界があることを知りました。イフカ含め団体に所属させていただいてそこに集まる方々の温かさを感じることができました。措置解除されてから学費や生活費を払いながら学校に通わなくてはならなかったり、救急車で運ばれたり、生きることをやめようとしたり色々な壁が沢山立ちはだかりました。

その壁を乗り越えられたのは壁にぶち当たったときに支えてくださった方々がいたからです。
優しい力強い方々と繋がれたこと。私が今まで生きてこれたのは支えてくださるみんながいるからです。



IFCAについて
シアトルと東京に本部を置く非営利団体IFCA (International Foster Care Alliance) は、日米で社会的養護の当事者ユースチームを結成しています。過去10年間、チームの若いメンバーたちはお互いの国を訪れ、主催・共催した50以上のイベントには、5000名以上の人たちを動員した実績があります。

社会的養護の当事者ユースが自己のストーリーを語る理由

日本では、アメリカや他の経済先進国とは異なり、要保護児童の85%が大規模な施設で暮らしています。 社会的養護の当事者であるユースは、自分の意見を述べる機会を十分に与えられておらず、「若者の声」は認知されにくいのが現実です。しかし、日本の当事者ユースが直面している困難の多くが、アメリカの当事者ユースが直面している困難と極めて類似しています。これらの若者たちは、恐怖、屈辱、孤独に満ちた幼児期を過ごしました。文化や言語の違いを超えて、過去の経験を仲間と分かち合うことで、かれらは強い絆で結ばれています。

この壁画プロジェクトは2023年夏にシアトルで始まり、2025年冬に名古屋で終わります
この壁画プロジェクトは、国際交流基金が支援する3年間の助成プログラムの一環です。日本人アーティストの鷲尾友公氏とIFCAの社会的養護の当事者ユースたちが、若者たちの「困難とレジリエンスの物語」というテーマをもとに壁画の原案とデザインを創ってきました。このシアトルでの最初の壁画は、長いパンデミック期間を経た日本とアメリカの社会的養護の当事者ユースを再び繋ぐものです。私たちは、アートは地域社会をつなぐ世界共通の言語であり、シアトルと名古屋市の2つの壁画が、太平洋を越えた若者たちの団結力と強さを示すことになると信じています。