僕の名前はサンウォン
僕は1991年にボストンで生まれました。父は韓国系アメリカ人?の医師だったようで、母はアメリカに留学した在日朝鮮人でした。
父とは会ったことはないのですが、98年まで母と一緒にアメリカで暮らしていた記憶は今でもあります。
アメリカでは各地を転々とまわっていました。コネチカット、シアトル、ハワイ、カリフォルニア・・・。
一番記憶に残っているのはサンフランシスコで過ごした思い出で、いまだに何かの拍子にふとそこでの情景を思い出したりすることがあります。
98年からは母親に日本に連れてこられて(そのせいで今では英語と韓国語があまり得意ではありません・・・)、暫く母方の祖母の下で過ごした後、母と二人暮らしをすることになりました。ただ、2003年に母が病気になってしまったので、児童相談センターでお世話になったあと、小平市にある都営の児童養護施設に入ることになりました。
施設では様々な年齢の子がおり、最大で60人以上の子供たちが起居していました。1ユニットあたり定員が9人にも関わらず、部屋が4つしかないので二人部屋、三人部屋は当たり前でした。 (後に一部屋を2つの個室に改装する等の動きはありましたが・・・)
お小遣いは中学生で2000円前後、高校生で5000円ほど貰えたのでそれほどお金に不自由はしませんでした。それに、学校にかかる費用はすべて出して貰えたので心強かったです。
色々な子がいるので、しょっちゅう争いは絶えませんでした。喧嘩も日常茶飯事です。それに、親のいる子は時々面会に来てくれたり、実家に外泊したりすることができたので、皆からは羨ましがられていました。公平を記するために親から貰ったものを園内に持ち込むことは禁止されていました。(守らない子もいましたが・・・)
夏には、各ユニットごとに旅行に行ったり、クリスマス会、スポーツ大会、歓送会などの行事が充実していました。
園では高校卒業まで面倒を見てもらったのですが、お金が無かったので、大学に進学するのは諦め、不本意ながら自立援助ホームに入り就職をすることになりました。
ホームでは厳しいルールがあり、働く意欲のない子は追い出されること、失業中は休職中に専念するため遊びには行かないこと、そして生活費は全て自分で稼ぎ寮費を支払うこと、お金が無い人はホームから借金をせざるをえませんでした。
僕はシステム開発会社で特許検索アシスタント、サーバー更新業務などを担当していましたが、仕事はたいへんで、時には日付が変わる時刻まで残業することも多々ありました。仲良くしていた子は午前2時に帰ってきて午前4時にそのまま出勤する毎日を送っていた例もあり、よく死なないなと思いました。本当は門限の午後10時までに終わる仕事に就かなければならないのですが、どこの会社も過激な残業を前提にしているので、守れない子もいました。
ホームには二十歳になると出ないといけないので、そこを出た後千葉県に引っ越しましたが会社は退職することになり、今は失業手当を貰いながら、公共職業訓練を受講しています。
今後どうするかはまだはっきり決めていないのですが、大学に進む夢は諦めきれないのでどうしようかなー・・・と迷っています。
故郷であるアメリカとの繋がりを取り戻したいので、この活動を当してそれができたらいいな、と思っています。